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「どんな現実もそれ自体に意味はないんだ」

ものごとの感想書く際に、感じ続けていることがありまして。
それはですね、自分の感じたことが、正論かそうでないかをどうやって判断するのか、ということです。法だとか、正義だとか、規範だとか倫理だとか、そういうものだったら人間として「こうあるべき」というのはむしろないと困る訳ですが、人が作るものに対して「それは違うんじゃないの」とは必ずしも言いがたいというか。

どっちかっていうと、「それは違うんじゃないの」と言うときには、「自分の思ってるのと違う」「自分が思っている範囲を超えている」ということで、その判断基準は、どーしよーもない自分なんですよね…。
踊るの捜査員日誌などで、昔なんかエラソーなこと書いていたような気もするのですが、実はそのころからずっとそれが根底にあって。「これはどうなのよ?」といいつつ、最後にはフォローなんだか、「でもこういう考え方なんだろうなあ」という書き方をしていたような気がします。(裏のブログではめんどくさいのでしてませんが)

今回読んだSWAN MAGAZINE「Maia」の中に、印象深いレオンのセリフがありました。

「どんな現実も、それ自体に意味はないんだ。出てくる感情がプラスかマイナスかで、外の総てが違って見えるというだけのことだ」

これ読んで、そーなのよそういうことなのよ!!さすがレオン(←違)、と思っちゃったのです。
「その」現実に対し、好悪の感情を持って判断するのが人間であると。
一人の人間の中ですら、その時の感情次第で、現実の捉え方見方が違って来てしまうんですよね。すると、感情の振れ幅が大きい人の場合、自分の中ですら判断基準が曖昧に、刹那的になる。刹那的というのは、例えると、踊るにトチ狂っていた頃→一歩引いて見ている今、くらいのスパンですけども。多分、あのころの自分だったら、こういう感想にはならないだろうな、とか、いまでは思ったりしているわけです。

それが形に現れたのは、ある方へ宛てた自分のメールでして。

しかし、普通なら、できたものから判断して、室井さんはこうかもしれないああかもしれない、と想像するのを、室井さんはこうじゃない、という声が出るなんて、考えてみたらおかしな逆転現象っていうか。
od1からod2のスパンが開きすぎたんでしょうかね。
連続ドラマなら、「ああ、こういうのも室井さんの一面なのか」で終わっていたでしょうが。(そこに失望したり萌えたりという感情がリアルタイムで発生するとしても)
見る人が想像をたくましくし、熟成させるに十分な時間が与えられてしまった。(特に室井さんのような、想像の余地が山ほどあるキャラクターは)
作る側と見る側のずれが生じてしまうことは、結果として当然だったかもしれないと思います。

こんなことは、昔は絶対に書けなかっただろうなと、気づく訳です。

ただ、これからの自分がどういう方向に行くかっていうのは、今はわからないわけで。自分が変わるってことがわかっていたところで、それを見越したものなんて書けないし、感情の振れ幅が小さいという自信もないし、冷静にそのものをみられているかっていうとかなり疑問(笑)だし。

ここで前述のレオンなんですが。彼はだからって、感情がぶれないようにコントロールしろとは言ってませんで。「柔軟な心で」「自分の思考のクセやパターンを知って」「心で感じる自分のヴィジョンを信頼して動きなさい」とまいあに言います。自分が抱いた感情を否定することはない、ただ、それをうまく利用しなさい、というということかなーと思うんですけど。

なので、逃げなんだけれども、自分の「嗜好」として何かを書く傾向が強くなっています。その分、文としては理性のない、力のないものになりますが、仕方ないかなーと。どうしてそう思うのか、理由はあるのでそれを書いたりはしますが、それもあくまで自分の感情の中から出るものですから。
だから、「これは好き」「これは嬉しい」というお子様な文が増えると思います。

…より好き勝手度が高くなる、ともいいます(笑)

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